【主婦の朝】
夜が明けた。
目を覚ます加奈子。
ふと傍らを見ると、俊介はまた軽い寝息を立てて眠っていた。
いつまでも寝ているわけにはいかない。
今日から、主婦としての生活が始まるのだ。
まず最初の仕事は、会社に出勤する俊介のために朝食を作ることであった。


ベッドを降りて、ネグリジェを脱いで普段着に着替える。
もちろんランジェリーはスリップである。
美奈のような中学生がスリップを着ることはほとんどないのだが、スリップを着ていた母親との会話を思い出したのである。
「どうしてスリップなのかって? それはパパの視線よ。朝起きて着替えるときに、気配でパパが起きちゃうことがあるのよね。でもって、男の人にとって、魅惑的なランジェリーとしてスリップがまぶしく見えるらしいのよ。自分のために着るのじゃなくて、パパのためなのよ。でね、着替えをのぞいた朝のパパの機嫌が良かったりするのよね」
だから主婦の朝はスリップに決まりなのよ。
と、母親は言っていた。
そうかも知れない。
自分のことだけを考えていれば良かった中学生と違って、主婦には異性である夫のことをも考えてランジェリーを考える必要がある。
何よりも最大の問題は、俊介を受け入れたこの身体。
ましく加奈子の身体の何ものでもなかった。
好むと好まざるに関わらず、俊介の妻として一生をおくるしかないのだから。
「おっと、いつまでもくよくよと考えてちゃいけないわね」
主婦の朝は忙しいのである。
さっさと着替えて台所へと向かう。
幸いにも、常日頃から母親について教えられていたことが役に立った。
基本的なご飯の炊き方、味噌汁の作り方。
包丁の取り扱い。
やがて食卓の上に朝食が並び、あたりに良い香りが漂っている。
「よし、これでいいわ」
丁度、会社へ出かけなければいけない俊介を起こす時間になっていた。
二階の寝室に戻る。
いつもなら、
「パパ、朝ごはんだよ」
と言って起こしてきた。
でも今日からは違う起こし方をしなければならない。
なんと言ったらいいか悩んだが、母親のいつもの起こし方でいくことにする。
「あなた、起きてください。朝ですよ」
昨夜のことがあるので、顔を見合わせるのが気恥ずかしく、起こすのをためらいたくもなるが、そうもいかない。
「加奈子か……」
目をこすりながら、ゆっくりと身体を起こす俊介。
「さあ、着替えてくださいな」
パジャマを脱ぎかけた手をふと止めて、思い出したようにつぶやく。
「あ……。そうか、そうだったな。今日から新しい加奈子になったんだ」
「朝食ができています」
あえて淡々と話し掛ける加奈子であった。
ここでは自然に振舞ったほうがいいだろう。
いつもの朝の夫婦の会話らしく。
「わかった……」
俊介の方も口数少なく受け答えを続けていた。
これでいいのよ。
加奈子は思った。
今はいつもの夫婦の朝でいい。
朝食を終えて、二人で外に出る。
俊介は自動車を前向きで車庫入れするので、出すときは他の通行の邪魔にならないように、バック誘導をしなければならない。
玄関先での送り出しは加奈子の日課である。
「帰ってから、もう一度良く話し合おう」
と言って、俊介は会社へと出かけていった。
車庫にはもう一台、加奈子の自動車も置いてあった。
気にすることもなく、部屋の中へと戻ろうとする加奈子に声を掛ける者がいた。
「加奈子さん。相変わらず、仲がよろしいわね。毎日、欠かさずですものね」
隣の家の奥さんであった。
「でもここ一週間、姿を見かけなかったけどどうなさったの?」
向う三軒両隣。
近所付き合いは主婦にとっては大切な近所付き合いであり交流の場でもある。
いわゆる井戸端会議である。
「あら、加奈子さん。おはようございます」
加奈子の姿を見かけて、近所の主婦達が集まってくる。
母親の加奈子はこういう面でも几帳面でしっかりと付き合いを続けていたので、主婦達は気軽に話し掛けてくる。
「実は、風邪を引いてしまいまして、寝込んでおりました」
一応取り繕って、病気ということにした方が良いだろう。
「あら、まあ! それは大変でしたね」
「もう、大丈夫なの?」
「はい、もうすっかり」
このあたりの主婦としての受け答えのしかたは、母親っ子だったのでよく側にいて聞き覚えている。
「それじゃあ、今日も主婦業のはじまりですわよ。みなさん、頑張りましょう」
最初に声を掛けてきた隣の奥さんが促すように言った。
「そうですわね。でも、今日は快晴、洗濯日和ですわね」
夫を送り出した主婦には、忙しい時間がやってくる。
日常的に行われる、掃除洗濯をはじめとする主婦の日課がはじまるのである。
そこのところは主婦達の共通事項なので、そこそこの会話で解散することとなる。
つづく
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