ある日のこと。
外出から戻ると、部屋の前に見知った人物が立っていた。
「おふくろ!」
危うく声に出しそうになった。
かつての夫であった自分の母親であった。
美智子から見れば、自分は嫁であり相手は姑ということになる。
「おかあさん、どうしたんですか?」
声のトーンを落として美智子としての受け答えをする。
「いえね……。治夫との連絡が取れなくなってね、あなたなら何か知っているんじゃないかと思ってね」
実は美智子として生きるようになって、夫である自分の存在を疎ましく思うようになっていた。
そこで、夫である過去の自分との関係を絶つために、夫とは別居中となっており、離婚するつもりだという意思表示を実家に伝えていた。
いわゆる嫁からの離縁状を送りつけてやったのである。
「知るわけないじゃありませんか。彼とは別れたんですから」
「別れたといっても、まだ籍は入っているんだろ?」
「ええ、彼とは会えないので、離婚手続きができなくて、こっちも困っているんです」
作り話に決まっている。
夫であったかつての自分と、妻である今の自分。
共に自分であるから、離婚届を出すのはいつでも可能だったのである。
いつでもできると思っていたから、つい後回しになっていた。
離婚していないから、戸籍を調べれば今のこのアパートの所在もおのずと判る。
電話番号までは判らないから、わざわざ訪ねてきたのであろう。
「そうかい……。そうだよね」
時折、部屋の中をのぞき見するようにしながら、
「でもね。治夫がいないから、生活が苦しくてね」
遠まわしに言ってはいるが、明らかなる金銭の無心と判る。
一緒に暮らしていた頃からの腐れ縁というところか。
離婚していないから、一応の扶養義務があるだろう。
金がないなら働けよ。
と言いたかったが、ぐっと堪えて言葉を飲み込んだ。
「ハローワークで探してはいるんだが、この年では見つからなくてねえ」
とか言い逃れをしていたが、本気で働き口を探している風には見えなかった。
資産家の嫁がいるということで、就職するつもりはないようである。
卑屈になって揉み手をすれば、財布の紐を解いてくれると考えている。
早く追い返したかった。
実の母親なのである。
下手をすれば息子であることを見抜かれてしまうかも知れない。
「判りました。お金を差し上げましょう」
ハンドバックから財布を取り出して、つい先ほど降ろしてきたばかりの金を渡した。
十万円。
取りあえずはそれくらいのところだろう。
「いつも済まないねえ。ありがたいよ」
よく言うよ。
少しもありがたがっていないくせに。
もらったお金を自分の財布にしまうと、母親はそそくさと退散していった。
おい!
息子の所在を心配してきたんじゃないのか?
「しかし、何とかしなきゃならないわね」
今後も金銭の無心にやってこられたら、いずれは自分の正体を悟られる危険性がでてくる。
息子の行方よりも、金銭の無心の方に、意識が集中していたから、今回はばれないで済んだ。
しかし、回を重ねればいつかはばれてしまうだろう。
何とかしなければ……。
問題は、夫と妻、嫁と姑という関係が存在していて、扶養義務があることであった。
すでに夫とは別居中ということを公言し、会社やご近所の人々には認識されている。
この状態で、離婚届を出したら、
「夫は行方不明なんだろ? 署名や印鑑の押印などできないじゃないか。おまえが勝手に出したんだろう」
と言われるに違いないし、反論もできない。
今更離婚届は出せない手遅れ状態。
あの母親から逃れるには?
嫁と姑という関係を絶つしかないだろう。
となれば、何らかの方法で夫である自分自身をこの世から消し去るしかなかった。
もちろん法律的にである。
夫の失踪宣告を家庭裁判所に提出するという手もあるが、失踪してから7年経っていなければ受理されない。
離婚を前提とした手続きにしても、二年以上の別居が必要だ。
その間、あの母親との関係もしばらくは続く。
やはり手っ取り早く片付けるしかないだろう。
ここは死んでもらうに限る。
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